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創立記念式典 校長のことば

2024年11月30日

創立120年式典 校長のことば

ご来賓のみなさまには、本日のご列席、心から感謝申し上げます。

いま、龍田君と塩田さんからあいさつがあった。いいあいさつだった。「わが私学盈進の伝統は、こうして生徒たちの手によってつくられていくんだなあ」と実感した。

今後も、建学の精神に基づき、「平和・ひと・環境を大切にする学び舎」の盈進で、常に他者を重んじ、「仲間と共に、自分で考え、自分で行動」する盈進生であってほしい。そして、もっとすばらしい盈進を、クラスの仲間、クラブの仲間、すべての盈進の仲間と力を合わせて創ってほしいと願う。

ここにいる1200人の諸君のすべてがわたしの誇りであり、わたしたちの未来であり、希望なのだ。

創立120年の歴史と伝統の重みを前提に、昨年同様、「歴史から“いま”を学ぶ」をテーマに話をする。わたしは歴史学が専門で、イギリスの歴史哲学者E・H・カーのことばを常に思考の軸としている。

すなわち「歴史とは過去と現在との対話である」と。きょうの主な題材は先般、ノーベル平和賞を受賞した「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)の活動である。

昨日のレバノン停戦合意には少し安堵したが、いま、ウクライナの戦争とガザ地区での戦闘に胸を痛める日々である。とりわけ、報道で見る諸君と同じ子どもたちの傷ついた姿や泣き顔を見るとほんとうに辛い。ノーベル賞受賞後、被団協代表が「ガザで子どもが血をいっぱい流している光景は80年前の日本と重なる」と述べたが、胸に迫った。

わが国も約80年前、同じような戦争状態にあった。わが盈進は、戦争の苦難を、生徒はもちろん、教職員も一丸となって力を合わせ、乗り越えていま、ここにある。

鎌刈学園長先生が中心となって編まれた盈進100周年記念誌『青雲に燃ゆ』にこんな記述がある。

校舎は、ここ千田町に移る前の、戦前の三吉町校舎。現在の「福山すこやかセンター」付近である。

「1945年8月8日午後10時25分、91機のB29が襲来し、約1時間にわたって556トンの焼夷弾を投下した。これによって市中は火の海と化し……本校もこの空襲によって全焼した。……空襲警報が発令され、教職員が重要書類などを持ち出した。一方で当時、本校南校舎に駐留していた暁部隊の兵士が教室内の机を運動場に引き出し、避難作業を進めていた。しかし、空襲が始まると、おびただしい数の焼夷弾が浴びせられ、木造校舎はまたたくまに炎に包まれ燃え盛った。全員総出で消火にあたったが消失を免れることはできなかった」。(このように記され、盈進の学び舎は焼け落ちた)

諸君、昨年も話したが、ここ備後福山が生んだ偉大な文豪は誰か。そう、井伏鱒二。井伏は、鎌刈学園長先生と同じく、福山の加茂町粟根の出身。その井伏の作品に有名な原爆文学があるのを知っている人も多いだろう。そう、『黒い雨』である。

「黒い雨」は、原爆投下後に降った原爆炸裂時の泥やほこりなどを含んだ重油のような放射性の大粒の黒い雨のことである。作品には次のように描写されている。「雷鳴を轟かせる黒雲が市街の方から押し寄せて、降ってくるのは万年筆ぐらいな太さの棒のような雨であった」と。

「黒い雨」は放射性物質を含んでいるから、それを浴びれば原爆症と同じく、吐き気、下痢、脱毛、血尿、血便、発熱、白血病等のがんやその他、重い病気を発症する。現在も広島と長崎を中心に、この「黒い雨」を浴びた人への国による医療補償等に関する訴訟が続いている。

1966年に発表された『黒い雨』は、原爆の放射線による病に蝕まれる閑間重松とその妻シゲ子、そして姪の矢須子の3人家族の苦悩を描いた原爆文学を代表する小説だ。わたしは学生の時に原作を読み、映画も観た。

閑間重松のモデルは,現在の神石高原町(旧三和町小畠)に実在した重松静馬さん。実在の人物と小説の主人公。その苗字と名前をひっくり返したというわけだ。

重松静馬さんは爆心地の北約2㎞地点の横川で被爆。『黒い雨』は彼が残した原爆日記をもとに書かれているため、地獄と化した広島の惨状が生々しく描かれ、一糸まとわぬ黒焦げの死体などを克明に記している。作品には、三次、庄原、尾道、三原、山陽線や福塩線、そして福山近郊の芦田川、新市、山野、湯田村など、わたしたちの身近にある地名も頻繁に出てくる。

重松も妻のシゲ子も原爆症に苦しめられながら、同居する姪の矢須子の結婚話に悩む。彼女の結婚の話が持ち上がる度に、原爆の閃光を直接浴びた被爆者であるという噂が広がり、差別の対象となって縁談がなくなってしまったのだ。

重松は、矢須子が直接被爆をしていないことを証明しようと決意する。実際、矢須子は、爆心地から離れた場所にいた。しかし、矢須子は『黒い雨』に打たれ、放射線に晒されていたのだ。

矢須子は原爆症を発症し、苦しむ。矢須子は重松と妻シズ子に知られないように病院に通っていた。しかしある時、シズ子に知られてしまう。作品には、シズ子が夫の重松に医者から聞いた矢須子の病状をこっそりと話すこんなシーンがある。

「…熱が下がらん」「下痢して二三日……お尻の辺りに腫物が出来て痛がったんよ」「矢須子は、ひところ風呂に入らんかった。人に伝染すると思って、遠慮したんだろう」「腫物がつぶれて、少し楽になったけれど、熱が上がるし髪の毛が抜けるんで、こりゃ原爆病や、しまったと思って、アロエの葉を三枚も四枚も食べたんよ…」(一部改)

今回、「日本被団協」にノーベル平和賞が贈られることになったのは、世界に核兵器使用の危機が迫っている裏返しでもあるが、受賞理由は大きく二つある。

ひとつ目は、思い出したくもないあまりに凄惨な被爆体験を語ることで、核兵器は絶対に使ってはならないという「核のタブー」を世界に構築したこと。事実、ナガサキ以降約80年間、世界で核兵器は使われていない。被爆者の方々は、身近な家族や仲間の死を胸に刻み、決して大げさではなく、自分の命を削り、人類生存のために証言をし続けてきたのである。

ふたつ目は、その証言活動が、全く自分のためではなく、すべて「もう誰にも自分と同じ思いをさせてはならない」という復讐や敵対を超えた素朴だが実に崇高な他者を思いやる平和の思想を貫いてきたことである。それを証明するのが、被爆者の方々が異口同音に訴える次のことばである。すなわち「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」そして必ずこう続く。「ノーモア・ヒバクシャ、ノーモア・ウォー」と。被爆者運動のすばらしさは、どんな困難にぶつかっても絶対に、核廃絶と国による補償の旗を下ろさなかったこと。そして、いかなる戦争も否定してきたことだとわたしは思う。

先日も中学2年生は94歳の被爆者の切明千恵子さんの証言を聞いたね。「全身やけどの下級生たちが、1人また1人、『お母さん、痛いよ、熱いよ』ってうめき、泣きながら死んでいったのよ」「それはもう、地獄でございました」と。

切明さんと同い年で諸君の盈進の先輩の星野由幸さんは福山空襲の実相をこう語る。「焼夷弾が頭上から次から次に落ちてくる。その中を母と逃げ惑った。母が『由幸、もう死のう』と言った。わたしは必死で母の手を引いて逃げて、逃げて、ようやく生き延びた」と。

切明さんはわたしたちにこう呼びかける。「平和は向こうからやっては来ない。平和は、自分たちで引き寄せ、つかみ取るものなのよ」と。星野さんもこう呼びかける。「戦争は絶対にやってはならない。他者を思いやり、自分たちの手で平和をつくってほしい」と。

戦争は誰も幸せにしない。平和でなければ学習もクラブ活動もできない。学校は誰もが幸せに生きるためにある。

創立120年に思う。このような先人たちの生き抜いたいのちがあったからいま、わたしたちはここにいる。このすばらしい学び舎で、信頼する仲間たちと毎日、学習やクラブ活動ができるのは、先人たちのそのいのちのおかげなのだ。その歴史に感謝し、その歴史を引き継ぎ、きょうからまた毎日精一杯、自分がやるべきことに真剣に向き合い、仲間と共に努力しよう。

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